2013/05/19


補足:十月下旬、左腕さん・ひろしさん失踪。現在十一月  左腕さんの姿が見えなくなって数週間。布津は休みの度に城砦のねぐらに訪ねて行くのだが、彼はそこに帰っていないようだった。 (万々歳じゃないか) 布津は考える。 (いない方が面倒ないし元々はいなかった訳だし。俺が追い出したんでもないし) それでもなぜか、休みになると城砦まで出向いて左腕さんの住処を確かめずにはいられなかった。  綾敷キイロも時々付いてくる。黙りこくったまま、子供らしい甘えた思考、時に希望と呼ぶ幼気な思考で 左腕さんの住処の扉を叩き、お決まりのように失望する。  落ち着いた日々を取り戻したというのに、布津の気持ちは沈んだままだった。 特高警察へ布津が出勤した時刻、警視庁は常より遥かに忙しげで、どことなく不穏であった。 その理由は電車内での失踪事件――成程、これは一大事だ。 情報を掻き集める秘密警察課と風評を抑える検閲課は共に大わらわであろう。 いや、検閲課の出番はもう少し先だろうが、少なくとも空気だけは張りつめていた。 しかし布津は、あちこち連絡や雑用に奔走しながらも、失踪事件とはまた別の問題に悩まされている。 一つは、あの半仮面の男の姿をしばらく見ていないこと。否、ある意味それは歓迎すべきことなのだが、 治安を守ることが勤めの特高警察たる布津にとって、どことなく不気味な正体不明の男の所在を把握できていないという事態が 何かとても悪い事のように思われた。 本当はそれだけでは説明しきれない漠然とした不安が圧し掛かっていたのだが、形に出来ない不安はただ茫々と心中を漂うばかり。 二つ目は、早朝の電話だ。 一方的に「大丈夫だ」という言葉を遺して電話を切った 男の名は尚人、能人の実の父である。 しかし、父としての義務を放棄した男を、布津は認めていなかった。 ともすれば二十二年間マイナス六年間、憎み続けていたと言いたいところである。しかしそれは間違いだ。 布津能人は、目の前に居もしない人間を何年も憎み続けることが出来るほど強くはない。 当初は確かに嫌悪だった。否、真に当初と言うべき出発点は愛着で、その裏返しの嫌悪であったのだが、 嫌悪は敬遠に向かい、敬遠がゆえ嫌悪は薄れる。 電話越しに耳に響いた懐かしい声は、布津がごく自然に差し引きを行った幸せな六年間を思い出させる温かさを持っていた。 (わざわざ俺に電話するほど大変なのか) 絶縁隔絶した息子の声を聴き、ほっと息を吐くほどに? もしかしたら、特高庁内を騒がす失踪事件に関係があるのではないか。 職務中であるにも関わらず、布津は懐中電話を取り出した。 何気なく調べてみれば履歴は公衆電話。思い立ったが今ぞとばかり、隣席の先輩に断って席を立った。 大事件のさなかであっても、通信指令課前の廊下を焦って通り過ぎる者はほとんど無い。 この課の出番は、(もしあるとしても)少し先の事だろう。 真面目だが人並みに休みたがりの布津にとっては有難いことだった。 懐中電話の履歴から同じ公衆電話に掛け直した。 その場に留まっている可能性は極めて低いが、無いとも言い切れない。 『お掛けになった番号は現在使われておりません……』 「は……?」 もう一度ダイヤルする。 『お掛けになった番号は……』 「おい」 『お掛けになった……』 『お掛けになった番号は現在使われておりません……』 返ってくるのは父の声ではなく事務的なな女の声ばかり。 「嘘だろ」 夢だったのだろうか。しかし夢なら履歴が残るはずはない。 万一夢であったとして、それは一体どんな願望を反映したものだろう。想像するだに滑稽だった。 この奇妙な出来事はこれから起こるべくして起こる崩壊の一つの予兆だろうか? もしくは凡夫の知るべきでない世界を覗き込みかけている事への警鐘やも。