2013/05/19


「中目黒之嘘吐、ナカメグロ、ノ、ウソツキっと」 ウーン、と綾敷キイロは伸びをした。小難しい本を前にして、眠気と格闘した甲斐があった。 ようやく「鍵」といえそうなものに辿り着いたのだ。 「まったくもー、なんで布津サンが夏休みで私が調べものなんですか、おかしいでしょう配役が! 帰ってきたら甘味奢ってもらおっと」 「興味を持っているのはあなた一人ですよォ、我々自分探しをするほどの暇人ではありません」 相変わらず気味の悪い半笑いを浮かべながら、左腕さんが言った。 今日も今日とてその周りにはひろしさんが浮遊している。じとりと視線を向けて、キイロは言い返した。 「左腕さんは暇じゃないですか。無職だし」 オヤァ、と意外そうな声が上から降る。実質は少しだけの身長差を、左腕さんの赤いハイヒールが広げてしまうのだ。 「綾敷サンはそんなことも分からぬ少女だとは思いませんでしたネェ。 そんな事をしている暇があればとっとと城砦のねぐらにでも帰って眠ってしまう位興味が無いということを伝えたかったのですが」 (口の減らない……妖怪歴は私のが断然長いのに!) 不思議なもので、長生きがそのまま妖力に結びつくのではない所がままならない妖怪のサガである。 実際、年上であるにも関わらずキイロの異能力は弟アカイに劣る……どころか、未発動なので強いのか弱いのかさえ分からない。 このまま思春期を過ぎたら、無能力として落ちこぼれ扱いされても仕方が無かった。  一方、ついこの春西京都に現象したばかりの左腕さん。 異能力と言えるものは(多分)ひろしさんをこの場に留まらせるという程度のごく弱いものではあったけれど、ひどく頭が切れる。 どういう経緯で妖怪として現れたのか知らないが、キイロにとっては羨ましくも妬ましくも思えるものだった。 「まあ、いいや」 キイロは思わず気の抜けた声を出した。出ましょう、司書さんに睨まれるし。 半仮面の奇怪な容貌の男さえごく普通に受け入れる西京都の図書館司書であっても、迷惑行為の類には容赦がない。 話をするなら、絶対零度の瞳で睨み据えられる前に撤退すべき戦線だ。  左腕さんは考えの読めない微笑を浮かべながら頷いた。 --- 「それで?何か分かったんですかァ」 「なぁんだ興味あるんじゃないですか!」 素直じゃないなあと突っつくキイロの指を、左腕さんは鬱陶しそうに払いのける。 布津だったら迷惑そうにしながらも為すがままにされているはずだ。 左腕さんは心底から綾敷キイロという少女に興味が無いのだろう。  常ならば布津が支払うべきこの喫茶店の代金のことなど考えて沈んでいるのかもしれない。代金くらい払いますよ、と言えば、 食費くらい置いて行ってますよ彼は、とやはり色の無い声音で返される。 「布津サンにはもうちょっと優しいのになー、うでさんって」 「寄生主の機嫌は取るが吉。それから興味があるのではなく調査の苦労を買ってわざわざ聞いてやろうと言うのですよ、この僕が。  さ、早く」 あくまでもそっけない。キイロはしぶしぶメモを取り出した。 「そうですね、まず左腕さんの特質ですけども」 「分かり切った事は飛ばしてください、手短に」 ちょっと黙っててくださいよ!とキイロがとうとう声を荒げると、しれっとしてそっぽを向き、一口紅茶を啜る。  横顔は無表情で、それが半仮面のせいか、あるいは常に笑顔の仮面を纏った彼の素の表情なのか図りかねて、 キイロは考える事を放棄した。 「左腕が無い、半仮面、ハイヒール……はまあ嗜好かなとも思いますけど、とりあえず特殊な点に入れときます。 それから西園寺さんが教えてくれた左腕さんの怪談――人肉食、求めているのは自分の左腕、という話を繋げてみます」 箇条書きにした目の前の左腕さんの特徴と、書き足した怪談の左腕さんの特徴を丸で囲って、スッと線を引いて繋げた。 ホウ?と促され、キイロは再び口を開く。 「今のうでさんは怪談の左腕さんとは似ない、まあ、それなりに、比較的、穏やかな性格です。  それはひろしさんの力によるものじゃないかと」 「ひろしさん?」 浮遊する左腕が不思議そうに手首を傾げた。 「しかし彼自身僕の力によって現れているのではないかと」 「そうです、そこです。ひろしさんが今のうでさんの存在証明でありつつうでさんがひろしさんを生かしている、みたいなこの構図。  このバランスで、今のうでさんは割と穏やかで、つまりひろしさんは『失くした左腕自体』か、『その代用になるもの』か  いずれかじゃないかと」 「フウム」 「だけど、それだとどうも上手く行かない。だって、布津さんに会った時のうでさんはひろしさんとははぐれてた訳じゃないですか。ということは、もっと凶暴だったはずなんです」 「凶暴、ですかァ……」 複雑な顔をする左腕さんを視界に捉えながらも、キイロは「それで、」と話を続ける。 「私生まれ変わりの理論を調べてたんですよ」 「唐突ですね。アレは膨大な研究が為されているはずですよォ」 「そう。でも私、『引き』が良いんです」 引き――文献資料を漁るものにとって高等スキルとなり得る能力、異能とは一線を画しながら、人間妖怪亜人の線引き無く、 学術に触れるもの、文芸に触れるもの全てが欲する能力である。 アタリ、あるいは運とも良い、目当ての情報が掲載された書籍を探し出す能力、それが「引き」である。 一説には、背表紙を引き出す際の感覚が重視されるともされ、近年読書科学者のうちで研究が進められている一大テーマなのだ。 「で、出てきたのが中目黒之嘘吐という前世学者です」 「それ、名前だったんですねェ」 「とは言っても、彼の研究は書籍化されてなくて、せいぜい論文集に載っている位で……  他の前世学者の概説書の中にチラッと名前が出てきたから気になっただけなんですけど、大当たりだったんですねえ、これが」 にこにこしながら語るキイロの向いで、左腕さんはようやく興味を持ったようだ。 中目黒之嘘吐、中目黒之嘘吐……とその名前らしからぬ名を連呼しながら虚空を睨みつけている。 「そんなマイナーな嘘吐サンの一番有名な論文が『多宇宙ニ於ル時空間併存ノ原理及其応用』っていう題で、  えっとねー、解説によると……」 ええと、とキイロは眉間に皺を寄せた。その論文は専門用語と突飛な論理展開の連続で、結局解説を読んでも理解出来たのは ほんの一部分だったのだ。 そのコピーをひったくったのは左腕さんで、難解なその論文にサッと目を通して言い放った。 「不確定要素の決定因子を現在と言う一つのアンカーに定め二つの時間軸を導入する確率操作、猫の消失理論の応用」 「?」 ぽかん。ぽかん、である。これほど見事な間抜け面は今世紀に入って一体どれほどのものがして見せただろうと思えるほどの 見事な間抜け面で、キイロは聞き返した。 「はい?」 「縦の時間軸、一般に輪廻と呼ばれるもの、横の時間軸、我々の一生、良いですかァ綾敷サン」 アッ、ハイ。教師に指された気になって思わずしゃんと背筋を伸ばし、キイロはメモを取った。 「輪廻と一生が交わる点を『彼』の理論では現在と言う、そしてそこに現象している人間なり妖怪なり亜人なり、そういった存在が偶然による必然です。偶然にしろ必然にしろそこに『ある』もの。そして、いずれかの時間軸を人的に操作する事によって現象も消失も――」 「あっ、ちょっ」 「すなわち不確定要素の確定こそが――」 「まっ」 「現在を保留する事によって未来の――」 「ストップストップ!うでさんその理論今必要ですか!?」 とうとうキイロは目を回して喫茶店の机に突っ伏した。