2013/05/19


ジーワジーワと蝉の鳴く日、俺は旅支度をしていた。今からあの照り付ける日差しの中に出ねばならないと思うと気が滅入る。 「蝉食ったことある?」 「ありませんよォ、藪から棒に何ですかァ」 半仮面の男「左腕さん」は気味悪げに言った。さっきまでもの珍しげに俺の旅支度を眺めていたのに変わり身の早いことだ。 左腕さんの左腕というややこしい存在のひろしさんは保冷剤で手首を冷やしている。 旅支度、というからには旅行である。そして今回、俺の疫病神左腕さんは他ならぬ俺の部屋で留守番だ。 ヤツの根城代が浮くだけ、ほんの少し俺の懐が楽になる。 左腕さんという男が俺を専属自動預払機化してからというもの、俺はゼイタクは敵とばかりの 倹約生活を余儀なくされていた。 安普請とはいえ荒川に本来自分が必要としないはずの部屋を借り、荒川の主に紹介料を支払い、 ことあるごとに俺のアパートにやってくる左腕さんに喫茶店に連行される日々……。 安定の公務員生活、それも自分の部屋賃は給与の三分の一以下。 にもかかわらず飲み会へ行き渋り、貸本屋を駆使し、冷房の代わりにタンクトップ一丁で風鈴と 団扇に頼る現状は全て左腕さんが招いたと言っても過言では無い。 「という訳だから、留守番はよろしく頼むぞ」 「得体の知れない妖怪モドキにお留守番を頼むとは、さては布津君友達が居ませんねェ」 左腕さんは一人合点して「いけませんよォ」と腕を組んでいる。失敬な。 そもそも、なぜ旅行に出かけるのか。仕事である。 だから正確には旅行でさえないのだが、気分はどちらかと言えば確かに浮かれた方向にあった。 西京湾に現れた幽霊船の調査。希望者は現地に派遣され、運が良ければただ見回りに参加するだけで 給与が受け取れるというボーナスイベント。 参加しないという選択肢があるものか。海パンを持っていくべきか悩んだ挙句、誘惑に負けてカバンに放り込んだ。 「友達はいる!その友達が同じ目的地に向かってるか、とっくに西京に居ないか、留守を任せるほどの仲じゃないか、だ」 「じゃ、僕は部屋に上げて留守を任せるほどの仲なんですねェ」 今度は「嬉しいことです」と頷いている。断じてそうではない。判断基準は諦めがつくか否かだ。 親友と思っていた人間に裏切られて、例えば通帳を持ち去られた場合の心痛と、全く信用しておらず むしろ日々苦しめられている者に予想通り金を使われた場合。 どちらが精神を平常に保つことができるかは明白である。 「保険だ保険。左腕さんは保険。部屋に上げるかどうかなんて言ってる間にどうせ勝手に上がるし ひと月城砦の方の家賃が止められておトクだからってだけで。絶対余計なところ触るなよ」 財布の紐は絞めて行かなければ、と俺は思う訳である。 一人寝の今は良いものの、もしや今後いい人が出来た時「金がありません」では示しがつかない。 そんな俺の思いなどつゆ知らず、左腕さんは「それは酷い」だの「友愛とは共有財産を云々することで」などと 勝手なことを言っているのだ。 「ねーから友愛。とにかく余計な事はするなよ、宅配便が来たら受け取って、 多分サインで良いけど、必要だったら印鑑は行李の奥だから何とか探して。 壊中電話は俺が持ってくけど番号書いとくから何かあったらその辺の公衆電話使えよ、あとー ……左腕さんが紅茶と酒以外喰らってるの見たこと無いけど一応食費ココ。あとは――」 ハイハイ、と左腕さんは呆れたように手をヒラヒラさせた。腹の立つことにひろしさんも左腕さんの背後で同じポーズを取っている。 ジッ、と旅行カバンのファスナーを閉じて、俺の旅支度は完了した。 外では相変わらずうるさく蝉が鳴いていて、俺は汗だくだと言うのに左腕さんもひろしさんも涼しい顔だ。 「まー、よろしく」 俺は細々とした注意を切り上げて、後を託すことにした。言った所でどうせまともに聞いてはいまい。 どうか無事であれ、俺の部屋。 ちょうど懐中電話が震えた。車を持たない俺は先輩である西園寺に拾ってもらう手はずになっているから、 恐らく彼が到着したのだろう。 案の定、電話越しに聞こえてきたのは「アパート分かんなくてとりあえず最寄り駅に居る」という 微妙に有難くないちょっと有難いお知らせだった。 「ええ、ええ、はい。大丈夫です。すぐ行きます」 「いってらっしゃい、布津君。何なら幽霊船に喰われてしまいなさい」 「……」 表情を変えずに、つまりはいつもの胡散臭い笑みを浮かべたまま言われた言葉が、どうも冗談だとは思い切れず、俺は眉を顰めた。 「……いってきます」 「いってらっしゃい」 ひろしさんはバイバイとでも言うように手を振った。 ---  誰が!僕を救えるか!  男はそう言って振り返った。 切れ長で理智的な光を放っていた目を今は見開いて、口端をギュウとつり上げた悪鬼は 肚の底から楽しそうにアハハと笑うのだった。 「誰が僕を救えますか、ネエ、最上君代!僕は君を救ったぞ、ネエそうでしょう答えろ!答えるんだ最上さあ早く」 とち狂った叫びに涙声が混じる。女は思わず一歩後ずさった。それがいけなかった。 振り向いたオルフェウスのように、たった一度の僅かな不信が男を完全に破壊した。 「最上!僕が『怪物』に成り果てる前に振り返れさあ早く今すぐに!」 悲痛な叫び声に未だ理性が宿っていることに女は気付いていた。 しかしその声がもう二度と聞こえなくなるであろうこともまた、彼女の理解するところ。   女は、ただ自己愛のために、漠とした暗黒の世界で男に背を向けた。