東京上野は不忍の、泥より出し蓮華堂。ただいまの一言も無く、ゴンコは引き戸を開けた。 しょうよう老爺は居ない。 夕方の散歩だろう、と目星を付けて店内を抜け、ダイニングに足を踏み入れる。 床下から冷気が這い上がってくるような寒々しい空間。 ブルーグレイのフィルタが掛かったような、寂しい色合いのその部屋を、ゴンコは久しぶりに見たような気がした。 「ばかやろう」 ゴンコの口から零れるのは、思っている事とはかけ離れた罵詈雑言ばかり。 バカ。アホ。ハゲ。クソオヤジ。 「帰ったかね」 散歩に行っていると思い込んでいた老人が階段の暗がりからぬっと現れたのを見て、ゴンコは 「うん」 とだけ言って押し黙った。 老爺はそうかい、と溜息を吐くと、 「ご飯にしようか」 と言ってよたよたと台所に向かう。 ゴンコも黙ってその横で夕飯の支度を始めた。  ゴンコは食卓に三つ茶碗と箸を並べて、首を傾げて一組だけ片付けた。  翌朝、のろのろと着替えをして、ゴンコはポストを覗いた。 土日は見習い大工の仕事も休みだ。 まだまだ見習いとしてさえ一人前でないと思われているのだ、とゴンコは頬を膨らませるが、 実は気の良い棟梁のせめてもの「青春を謳歌しましょう」という分かり辛いメッセージである。 ゴンコがそれを理解するのはいつの日か。  新聞が一部。うっかり取り落してバラバラと広告が散る。 「ああー」 ゴンコは誰も見ていないだろうと遠慮なしにガニ股でしゃがんでそれらを集めた。 ふと、白い一通の手紙が目に入った。 おいおい住所が書いてないぞ。手投函ですか、全くご苦労なこって。 頭の中で誰かの苦を労いながら裏返すと、そこに記された丁寧な、癖の無い、だが面白味もない字。 「布津尚人」 起き抜けというだけではない、疲れてぼうっとした頭で何とか思考を前に進めようとするが敵わない。 「布津尚人だって」  ゴンコはバタバタと蓮華堂の所謂居住スペースに駆け込んで、食卓に新聞と広告をバサッと投げ出し、 しばらくうろうろした後再び慌てて階段を駆け上がった。 「しょうようさん!しょうようさーん!!」  拝啓 しょうようさん、ゴンコちゃん  お元気でしょうね、この手紙が届くのはいつになるか分かりません。 届くかどうかも分かりませんが、出来るだけ早く着くようにと願います。  つまり、一つの奇跡を期待しているのです。 私が東京に来て、公衆電話が向こう――西京と繋がったことはお二人に話したと思いますが、 それと同種の奇跡が起こらないものかと、傲慢なる予期のもとでこの手紙を書いています。  陳腐な感謝の言葉を並べることしか出来ません。私は文士でもなく、また、特別優れた俳優でもないばかりに、 文章を作り上げると言うことが甚だ苦手なのです。  しょうようさんはご存じ無いでしょうが、私は東京に来て、泣きました。 ゴンコちゃんに自分の隠していた気持ちを看破され、悔しかったのか悲しかったのか、恥じたのか、 ともあれ、泣いたのです。 様々に告白したいことはありますが、ただただ時間が無いというその一点が、 その全てを語らずして済ます免罪符になっております。 だから、一つだけ告解しましょう。  私は何枚も仮面を持っておりました。 誰かにとっての友人である自分、妻にとっての夫である自分、 父である自分(もっとも、この仮面は長年埃を被っております)、舞台人である自分。 生活というものがそのまま演ずるということでした。 少なくとも西京都に於ては、その状態を保ったまま何十年と生きてきたのです。  ところが東京という異国で、私には「何も無い」ということに気付かされたのです。 虚無であった。培ってきた仮面が悉く崩れていくようにも思いました。 あまりにも弱い生身の人間がそこにありました。 その時、お話したところの一種の「奇跡」が私を正気ならしめました。 残された二枚の仮面――亡き妻に見せてきたもの、そして、あることすらほとんど認識していなかった、父の顔 ――肌寒い言葉です。「家族の絆」という、大変に肌寒い言葉が、異国に於いて私を救ったのです。  しかしながら残ったその二枚さえ、恥ずかしながら一五、六の少女に剥ぎ取られてしまった。 恨みはしておりません。むしろ、亡き妻は喜んだのではないかと思っております。 もっとうつつを抜かしなさいという謎の助言が彼女の十八番でしたから、 可愛らしい少女に手玉に取られたと言うことは、黄泉の道すがら、みやげ話にも出来ましょう。  告解と申しますは、つまり私が罪と思っていることは、お二方の誠意に対し、 私が滞在させて頂いた時間の半分以上を偽りの顔で過ごしていたことにあります。 鋭くもしょうようさんは察知していらしたようですが、どう思われたかではなくどうあったかが重要なのであり、 その意味で私は大変に不誠実でありました。 お許し頂けずとも、この手紙の性格を考えるに自己満足意外の何ものでもないという点で、 これがお二方の元に届きさえすれば、私はそれで構いません。手前勝手をご理解頂けますよう。  さて、時間もありませんので(というのも覚えるべき台本が溜まっているのです。幕開きは来週です) この辺りで。ありがとう。 異国東京の友人に敬意を表して、西京都より、愛を込めて                             布津尚人 <終>