2013/05/19


 温かい布団に包まれて、十一月の冷気から逃げる。 何度か繰り返した朝を迎えた。相変わらず尚人は東京に居る。 時々息子の事を思い出す。息子の事を思い出すと必然的に亡き妻の事も思い出す。 だけどそれは、決して辛いだけのものではなかった。  能人は一体どうしているだろうか、と眠たい頭がギシギシと動き始める。 そろそろ油を差さねばなどと下らない事を考えて、自ら「下らんな」と一蹴する。 カーテン越しに淡く朝日の入る四畳半。三人では窮屈な部屋も、一人ならば居心地は悪くない。  電話で話してから、もう七日程、多分、ちょうど一週間。 しょうよう老爺は時々思い出したようにコンピュータのあのページを覗くが、 尚人があまり興味を示さないので「ふうむ」と呻ってすぐに画面を真っ暗にしてしまう。  一週間の間、ゴンコがしつこく布津家の事を聞きたがった。 大抵は家族の話だ。能子のこと、尚人のこと、能人のこと。 妻は三年に一度、手編みのマフラーを送ってくれた。 「マメだね」ゴンコは感心しながら頬杖をついた。 愛しの(その形容を尚人は半ば皮肉めいて使う)息子は、特高警察に入庁したその年に髪を黄緑色に染めたらしい。 ゴンコは「すっげえ」と目を丸くした。 尚人の記憶の半分には家族の姿がない。 全ては、能子の手紙にあった話だ。だから、真実かどうかさえ分からないままにゴンコに語る。 食事の後、しょうよう老爺は早々に床に就いてしまうから、能人とゴンコはダイニングでのんびり話をした。 能子が手紙で少し弱音を吐いた時には、心配で居てもたってもいられず一度だけ能子を食事に誘った。 それまで自然と距離を置いていたが、そこに深い意味は ――一般的に言われるような、「倦怠」に似た意味は――無かったので二つ返事が返ってきた。 (私が死んだら、能人はどうなるのかしら。そりゃ今だってあの子一人で暮らしてるわ。 だけど、誰も居なくなっちゃうじゃない、本当に) 日本酒をお猪口にほんの一杯。それをのんびりと消費しながら、夫妻は同じ方向を見ている。 (誰も居ないんじゃないか、最初から) 詭弁だ、と言われても仕方がない。ただ、能子が、息子の隣に寄り添うことをごく当たり前に思っているのが 何となく気に入らなかった。 (それならなおさら、あの子の側に居なくちゃ) (僕の周りには誰もいないのに?) ふと、意地悪がしたくなったのだと思う。能子はきょとんとした。 (いいや。忘れてください) 能子はその通り、忘れてくれたのだと思う。優しい女だから。 「おじさんも寂しかったんだ」 ゴンコがぽつりと言った。尚人は寂しいという言葉が理解できずぽかんとしてゴンコを見る。 「息子さんにまで嫉妬してるってことでしょ?よっぽど好きだったんだねえ、能子さんのこと」 尚人は頬が熱くなるのをどこか遠くで感じた。 何かが揺らぐ。 仕事の為に家族と離れてあるのだと、そう思い込もうとしていた。 そして、その頑強な仮面は、他のあらゆる仮面よりも堅固で絶対的で不動の、外そうとしても外せない、 もはや皮膚の一部と考えて差支えないような一枚の仮面であると確信していた。 知り合ってたった数日の少女に剥ぎ取られるような脆いものでは無かったはずだ。 こんなにも恥ずかしい、いわゆる嫉妬心を平気な顔で語ってしまうとは! それが嫉妬心だと、今さら気付かされるとは! 「仕事と家庭」などというありふれた題目について記者に訊ねられた時には平気な顔で―― (否、どうだったろう) あの雑誌が刊行された直後、能子は珍しく長文で、自分の身を案じる手紙を寄越しはしなかっただろうか。 「おじさん?」 どこか遠くで、少女の声がぐわんと響く。 亡き妻との往信の中で、彼女が尚人の心配をした事など数えるほどしかない。 それこそが彼女の優しさであった。 つまるところ、能子は強く、吾子をただ一人で育て上げることの出来る女であり、 尚人の方はと言えば彼女と表向き「自発的に」別れていたものの、 その物理的距離を埋め合わせるかのように事あるごとに手紙を送り、毎日ポストを覗くような男だったのだ。 離れたのはひょっとして、仕事の為でもなんでもなく、あの人の気を引きたかったからなのでは? (俺は果たして、一人で平気だったのだろうか) 能子は、親密なもの同士の間のみにしばしば発揮される鋭い直感によって、 尚人自身さえ気づかなかった精神の動揺を察していたのかもしれない。 「私は……」 「どうしたの」 ゴンコの声には焦燥が滲み出ている。努めて平静に尋ねてはいるが、隠しきれてはいないのだ。 大人ぶってみてもせいぜいが十五、六の少女だ、と尚人は侮った。 「私の夢は、普通のことだったんだ」 「うん」 「普通のことが難しかった。感情が波打つのが嫌だった。幸せな時に不幸せを考えるのが嫌だった。何もかも嫌だった」 「ずるいなあ」 ゴンコはなんでもない事のように言う。 その裏に隠された同情心を確かに感じて尚人は自嘲の笑みを浮かべた。 「泣きたいな」 「言わなきゃ泣けないの、いい歳して」 同情が呆れに変ったのを確認して、やや安堵する。 「二つの事を一緒に出来るような、器用な人間じゃなかったんだなあ」 「おじさん凡人だからね」 「アッハッハ。選択を間違えた」 愉快な気持ちになって、尚人は笑いながら涙を流した。 それが、確か三日前の夜のこと。 うつらうつらと布団の中で考える。 その日ゴンコと尚人は一つ約束をした。 土曜にお出かけをしましょう。ただそれだけのことだ。 目的地も無い。 ゴンコはしょうよう老爺から多少お小遣いを貰っているとはいえ大した額では無いし、 大工見習の方の給金はほとんど只の隣。 尚人は言わずもがな、老爺から手当と称して電車代を受け取る他には無収入。 だから遠出は出来ない。 それでも良かった。 仄かながら、ゴンコの中には一つの確信をもって「この生活は終わるだろう」と思わせる直感が働いていたし、 彼女はそれから逃げようとは思わなかった。沈黙し、その予感を看過した。 尚人は少女の諦めなど知らず、のそのそと動き出した。 今日は約束の土曜日だ。 出かける用意をしなければ。 尚人は亀の如く布団から這い出して、西京都でも着ていた着流しにのんびり袖を通し、前を合わせて帯を探す。 いささか肌寒いが外套を羽織ればちょうど良い。 少しだけ丁寧に寝間着を畳んだ。 階下からは香ばしい焼き魚の匂いと味噌汁の香り。 誘われるように、尚人は階段を降りた