2013/05/19


朝日と雀の声。バタバタと忙しく廊下を走る音。 「いってきまーす」という元気な声。心地よい雑音とみそ汁のうまそうな匂い。 これほどのものをなぜ軽んじたのか、尚人は眠たい頭で考えた。 (幸せから逃げたのだ) 幸福に生きることから。 それは、生きる事からわざと手を抜く一種の知恵だった。  ならばこうも狡い尚人を、なぜ能子は捨てなかったのだろう。 一つ疑問の答を出したと思えばさらに大きな疑問が立ちはだかる。 尚人は思考を停止して掛布団にくるまった。 少しだけ髪の伸びてきた頭は、それでもまだ冷たい空気にじかに触れる。 (こちらでも剃ってもらえるものかしらん) 布団から抜け出せない。 「おわあ忘れ物!」 再びバタバタと廊下を走る音。 ゴンコだろう。昨日の年に似合わぬ落ち着きが嘘のようだ。 スラッと障子の開く音とほとんど同時に、冷気が身体中を刺す。 「ああ……寒い……」 尚人は身体を縮こめて、弱弱しい声で現状を告げる。右手が奪われた布団を求めてゆらゆら空を切った。 「起きなさい!」 ぶつけられた言葉は少し懐かしいものだ。 尚人にとって、布団を剥ぎ取られることさえも亡き妻との思い出の一つだった。 「能子……?」 「ゴンコ!仕事行ってきます!ちゃんと起きてね、あと出来たら食器洗っといて」 ゴンコは布団を拉致したまま、スタスタと部屋を出て行く。 仕方なく体を起こせば、西京都にある彼の部屋とは似ても似つかない、狭い部屋だ。 「あー、そうか」 ぼんやりとした頭に、何とか昨日の記憶を呼び覚ます。 まず、訳の分からないうちに東京都に迷い込んだ。 そして、訳の分からないうちに「蓮華堂」なる何屋かも分からない店の二階に世話になる事に決った。  西京都民が東京に迷い込んでいるらしい。 真偽の分からないその書き込みを見てから、彼としょうよう老爺、そしてゴンコはしばらく話し合った。 ゴンコは西京都について、しょうようは尚人についてそれぞれ興味を持ったらしいが、 ともかくこの秋も深まる大都会に中年男性一人を放り出すほど容赦のない二人ではなかったようだ。  四畳半の一室を与えられ、月曜からしょうよう老爺の趣味休暇のため、店番をすることに決まったのである。  なぜかゴンコは喜んだ。老爺曰く、 「父親が出来たみたいで嬉しかったんじゃないかね。 良くもないが悪くもなさそうな男だし。年の頃も近いし。わしゃ知らん」 と。そしてびん底眼鏡をずり上げて咳払い。 「あの子は寂しがりやだでねえ」 どうだか、と尚人は思った。それでも馬鹿げた仮面が微笑みを返す。 東京へ来てからこっち、ほとんど現れる事の無かった ――つまり、必要としなかった――本心を覆い隠す為の仮面。 ぼろぼろに壊れたはずの仮面が綺麗に蘇ったのだ。老爺は眉間に皺を寄せて口を引き結ぶ。 「その笑い方は好きじゃないな」 亀の甲より歳の功。 亀の甲だって占いくらいには使えるだろう。尚人はそう考えたが、沈黙を保った。 --- ゴンコは棟梁になるらしい。尚人はしょうよう老爺の雑談にへえ、と相づちを打つ。 それだけでも、心底驚いたというのが伝わったのか、老爺はニンマリ笑った。 皺が深くなり顔がくしゃくしゃになるが、不機嫌そうな顔よりは愛嬌がある。 老人は日曜にはコンピュータの会に行くものだという。 今日は尚人を初日に一人で店番させるのも忍びないから休んだ、と恩着せがましく言ってきた。 その当人は店番を尚人に任せて店の隅でコンピュータを弄りながらぼそぼそと尚人に話しかけてくる。 日曜だからか、午前中に学生服の男子が一人冷やかしに来ただけで、それ以降客足はぱったり途絶えていた。 「あの子はあれでしっかりしてるんだ、あんたより。 まだ見習いだけんども甘っちょろいその辺の男より頼りになる」 甘っちょろいその辺の男、と言うとき、あまりにまじまじと尚人の顔を見るので、 怒るのも馬鹿馬鹿しくなって、尚人は苦笑した。 (十五の時分には確かに、ふらふらしていたなあ) 懐かしい柔らかな西京都の空気を思い出す。 荒川城砦周辺に近付くような命知らずではなかったので尚人の行動範囲はもっぱら学校周辺だったが、 学生街ならではと言うべきか時代柄というべきか、喫茶店や古書店、映画館、一通りの娯楽施設が 踏み固められただけの通りの脇にずらりと立ち並ぶ様子は壮観であった。 その通りに足を踏み入れさえすれば、人は誰でも思索に耽る哲学家であり、議論に熱中するイデオロギストであり、 またナンセンスに馬鹿馬鹿しい解釈を与えてみたり、(金のある限りで)心行くまで女優の白いうなじを眺めたり、 とかく文化の爛熟と退廃の混沌を一挙に体験できた。  その中でも「キネマヨシ」、店主がしょうよう老爺にも似て一見気難し屋だけれども 話してみると案外気さくな映画館には、週に一度は顔を出していたと思う。 「しかし、私はふらふらしていたからこそ今の職に居られるんですよ」 しょうよう老爺に向かって、わずかながら反駁する。 「あんたはいまもふらふらしとるじゃないか」 老爺はフンと鼻を鳴らした。 「というよりあんた、向こう……西京?では何しとったの」 「役者を」 「案の定だね、どおりで嘘くさい人間だと思った」 酷い言われ様である。 「それよりほら、これ見てみな」 弄っていた箱型の機械の画面を指差しながら、しょうよう老爺は立ち上がった。 木製のカウンターを出て老人の脇に立つ。 「『目撃情報』、『保護情報』諸々。ここまで数があるとあながちウソとも言えん気がするなあ。 頭が光るゥ?のっぺらぼうゥ?儂のヒーリングだけども、馬鹿馬鹿しいが何となく本物らしいように思えるンだ」 「そうですねえ」 「帰る方法が分からんのかなあ。目撃も保護もされとるけど、それ以降のことがよう分からん……あんたはどこから来た」 唐突に、ふと思いついたというようにしょうようが聞くので、 尚人はうっかり忘れかけていた奇妙な出来事もついでに思い出すことになってしまった。  かくかくしかじか。山手線に乗っていたはずがなぜか東京へ来たこと。 西京に居るはずの息子と電話が(それも公衆電話が)繋がったこと。 その後偶然ゴンコと会ったこと。  かいつまんで話すと、老爺はウウウと呻った。 「その、電話のことは分からんけど、こっちへ来たのが電車なら、帰るのも電車が良いんじゃないかねえ」 「なるほど」 「これ、給料の前貸しね」 尚人は目を見開いて、ブンブンと首を横に振る。 拒否したのではない、信じがたかったのだ。その紙幣に記された文字は壱萬円。 尚人は「それなりに」重宝されている役者ではあったが、「大人気」とは程遠い。 壱萬円と言えば、とてもじゃないがポンと手に入るものではない。 なんという、なんという大金……と意識が暗転しかけたところで、しょうよう老爺はカッカッカッと愉快そうに笑った。 「金の価値っちゅうもんは違うもんかね、向こうとこっちでどんなんか分からんけど、 こっちじゃ電車に乗るのに最低でも百円は掛かる、ものを食うなら三百円、少し良いモノ食うなら千円掛かるよ」 「はあ」 「貰っておきな」 ぐしゃぐしゃと手に握り込まされる。 体よく追い払われた気がしないでもないが、尚人は昨日通った道を逆戻りして、駅へと向かった。