2013/05/19


「上野は池之端、不忍の、泥より出でし蓮華堂ってことで」 とんとんと言葉を発しながらゴンコは一軒の木造住宅の前で立ち止まった。 大都会の中にぽつんと取り残されたような古びた一軒家だが、今にも崩れそうなその佇まいは かつて三人の役者仲間と雑魚寝で暮らした小さな部屋を思い出させる。 「なんでもあるから、この辺じゃ便利屋さん」 おはよー。少女の後に続いて尚人も店内に足を踏み入れる。 ゴンコの言う通り、一見して一応生活には困らないだろうと思われる商品の多様さだ。 飲料、食品、雑貨、文具……尚人が昔よく通った駄菓子屋を思わせる陳列に加えて、医薬品の類も扱っているらしい。 ただ、それらは整頓されずあちこちに散在しているので、目当ての品を見つけるのは中々骨が折れそうである。 「や、ゴンコ、そちらの兄さんは」 「あにさんなんて歳でもないでしょ。オッサンだよ。この人ね、お金もお宿もありませんって」 のっそりと店の奥から現れた老人に対し、ゴンコは尚人を指差して紹介した。 指差さないでくれる。尚人がそう言うと、少女はムッとして腕を下ろした。案外素直である。 老人には顔中深い皺が刻まれ、気難し屋らしく口を真一文に結んでいる。 牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡は重さでほとんど鼻先までずり落ちていた。老眼鏡だろう。 老人は尚人を分厚いレンズ越しに一瞥し、それから尚人の着物のの袖に悪戯しているゴンコを 「こら」と叱って頭を下げた。 二度も注意を受けて、ゴンコは長い前髪を弄りながら唇を尖らせる。 「さて、まあ、その、ゴンコの事だ、まあ、あなたに何か、その、あるのかも知らん」 「何か」 「ああ。この子、まあ、一人でなあ」 尚人がゴンコの方を見ると、少女はふいと目を逸らした。 「立派じゃないですか」 老人は睨み付けるように目を剥いて上唇をめくり上げた。 「そりゃあ」 年齢は知らないが前歯はずらりと揃っている。 「そういうことじゃないんだよ、ほら、分かるだろ」 実際尚人には彼の言わんとすることが分かっていた。 わざとおどけてみせたのだ。舞台上でもないのに、芝居が打てるものかしらんという不安ゆえに。 否、実際は彼自身深く感じているように、とっくに幕は上がっている。 演ずるしかない場面にやって来たというのも、能人と電話越しに言葉を交わした直後から分かり切っていた事であった。 ゴンコは能人に、尚人の息子に似すぎている。 尚人は、ゴンコに対する無理解を恐怖した。 だからこそ、最も一般的で最も無関心な笑みを浮かべて応対した。 「分かるような、分からないような」 「儂は兄さんみたいなナヨい男は好かんなあ」 アハハ、とゴンコが笑った。すると老人はそちらを睨み付けながらまた上唇をめくり上げる。 どうやらこれは老人流の笑顔らしい。 「しょうようさん、店番が欲しいって言ってたでしょ? ゲートボールの会に出るのとか、和歌の会とかコンピューターのなんかとか行くのに。 それに部屋の借り手こっそり探してるのも言ってたし、ちょうど良いかと思って」 「ゴンコはこの人信用できると思うかい」 「大丈夫」 ゴンコはしっかりと「しょうよう」と呼んだ老人の目を見て応えた。 尚人にはその自信が一体どこからやって来るのか分からない。 「仕事はいいの。部屋だけでも貸してあげられないかなあ。 事情は分からないんだけど、それにこんなのんびりしてるけど、多分結構大変なんだよ」 (そうか、のんびりしてるのか) 尚人は意外に思った。自分の中ではかなり焦っていたはずなのだが、傍から見たらそんなものだろうか。 しかしなぜか納得して軽く頷いた。 「ウウン、あんた、出身はどちら。履歴書とか。 まあ、よっぽど半分ボランチアみたいなもんだけど、一応商売だもんでねえ。届け出もあるし」 「出身は……ウウン、エエト、アー、東京?」 「なんで疑問形なの」 ゴンコの瞳がきらりと光った。やはり、しくじった。久方振りの緊張感。 さて、ここから本番、間違った所が真骨頂。即興劇はお任せあれ……とは言えやはり、敵地戦でははためく白旗。 尚人は情けなく微笑んで恐る恐る告白した。 「信じられなくても構わない、狂人だと思われたらそれはまあ、仕方のない事だけども。 実は東京の人間では無いのです」 しょうよう老爺は首を傾げた。「ウン」促すように相づちを打つ。 「じゃあ、どちらから」 「西京都」 「関西だ!」 「エッ」 ゴンコの叫びに尚人は耳を疑った。東京人が西京都の事を知っている? しかし、すぐさま勘違いに気付いて肩を落とした。 天照では、東側を関東とは呼ぶが、普通西京都の方面を関西とは呼ばない。 「『東京』の裏側……なのかな、東京では無い世界の『西京』ですな、私が来たのは」 「「ン?」」 少女と老爺は、同じタイミング、同じ角度で首を傾げた。インコに似ている。