2013/05/19


 ガタンゴトンという効果音はありふれ過ぎていると批判した脚本家は今どうしているだろうか。 結局彼の書いた戯曲は鳴かず飛ばず、あの散々な公演以来、一度も姿を見なかった。もう何年も前のことだ。 最後に(あるいは最期に)わが息子と話が出来て良かった、と尚人は一人ごちる。 できれば普段付き合う芝居仲間にも別れを告げたかったのだが、 もしどちらか一方を選べるとしても自分は息子の声を聞いたのだろうと、しょぼしょぼ目をしばたかせる。 自らが常々望んでいた謝罪をしていなかったことに、彼は未だ気付いていない。 固さ以外の何の感触ももたらさないコンクリートの上をただただ歩く。 行く当てなど無い。 前に進まない事にはどうしようもない、もはやそんな場面に来てしまったのだ。 幕が開いたら閉幕まで、流るる時の止まるものかは。 捕えるなら捕えよと覚悟を決めてはみたものの、洋装姿で闊歩する東京人達は自分を怪しむでもなく忙しげに行き交っている。 強いて言うなら自分の和装姿を怪訝な顔で眺める者は居るが、それくらいか。 今のところ差し迫って危険は無さそうだ。 「ヤレヤレ」 「おじさん変だね」 突然傍らから声を掛けられて、決めたはずの覚悟はどこへやら、尚人は即座に逃走体勢を取る。 あれやこれやと言い訳しつつ逃げ切れるものなら逃げ切ろうという魂胆である。 「クラウチングスタート?」 「くら……何?」 好奇心に負けて振り向いた尚人が目にしたものは、自分より頭一つ背の低い少女だった。 「知らないんだ。やっぱ、なんか無理矢理日本語にしたみたいな名前だったの?おじさん達の時代って。 『片膝立て腰上げ走行準備態勢』みたいな?」 少女はいやに淡々と言葉を紡ぐ。尚人がジッと見ているのに気付いて、丸い目をきょろりと動かした。 「何」 「いや、誰」 「ゴンコだよー」 「どうも、私は布津尚人」 カンカン帽を取って頭を下げると、ゴンコと名乗った少女も表情を変えずに小さく会釈した。 ゴンコの前髪が一房垂れて、それを鬱陶しそうに小さな手で払う。 およそいたいけな少女には似つかわしくない労働の苦汁に浸かり切った指。  尚人はそれを見るともなく見、もう一度問う。 「くら何とかとは」 「片膝立て腰上げ走行準備態勢だよ」 ゴンコは面倒臭そうに答えて、それからようやく尚人の東京には馴染まない装いに気付いたらしく、怪訝そうな顔で尋ねた。 「おじさん、何か変だと思ったら着物じゃん。今日何かあるの」 「いや、これが普段着だ」 尚人は崩れた着付けを直しながら答えた。 「時にお嬢さん、実は私宿無し文無しでね」 「ホームレスだ」 「……? うん、多分それだ。 ここへ来て初めて会った君に訊ねるのもどうかと思うが、ものは試し、どこか働ける所は無いかなあ。 宿があればもっと良い。贅沢かな」 「あのねえ、おじさん」 ゴンコは深いため息を吐いた。それから世慣れした飾り気のない動作でやれやれと首をふる。 「私とおじさんはさっき、一分か二分前に初めて会ったのにそういうこと聞くかなあ」 「や、ものは試しに」 「それはさっきも聞いた」 尚人は当惑して手持ちぶさたに帽子のつばを弄った。 「じゃあどうしてそう呆れ返っているのかな」 「宿無し文無しの働き手にちょうど良い超好待遇の働き場の情報を、私が持ってるからだよ」 「えっ」 目を見開いた尚人に対し、ゴンコは息を吸い込んで、猫が威嚇をする如く精一杯身体を大きく見せた。 「でもそれを、会ったばっかりのおじさんに紹介すると思う?」 「思うよ」 即答である。意地悪い笑みを浮かべて上位に立とうとしたゴンコもこれには不意を突かれ、 「エッ」と小さく叫び声を上げてしまった。 「なんで、どうして。なんでそう思うの」 「変だと思った人間に話し掛けるくらいの変わり者が、まさか世間の常識に従うまいと思うからね。世間の常識って嫌なもんだろ」 「……」 ゴンコは悔しげに舌打ちをして、尚人に背を向けた。 「電車代出しなさいよ」 「……吝嗇家め」 ---  東京駅から発って三駅ほど通り過ぎる間、ゴンコは小声で悪態をつき続けていた。 「くされジジイ」「甲斐性無し」「サル野郎」「クソ坊主」……エトセトラ。 尚人はただただ眉を下げるのみである。 何しろこれからの生活が懸かっている上、ゴンコが極めて汚い言葉で罵っているのが、 実際は自分に向けられたものでは無いと直感していたのだ。 道すがら聞いた話で、彼女が「親」という者、 ひいては親であるべきもの全般に対して相当の悪意を持っているのだろうということを、 尚人は無意識のうちに察していた。 ゴンコの両親は「テメエの汚えブツのせいで生まれた子供ほったらかしてのうのうと生きてやがる、 死んだ方がこの世の為になるような」両親だったらしい。尚人には分からない憎しみだ。 (思えば幸福な自由のうちに生きてきた) 自由が幸福であるならば、そこには誰かの庇護がある。 それが、あるときは彼の寛容な両親であったし、またある時は穏やかで強かな彼の妻であった。 (しかし、能人はこの子と同じように憎んでいるだろうな) 思い浮かべた顔は、能子の性格をよく受け継いだ自らの子。 のんびりしている癖にやたら芯が強く頑固者だったが、今はどうだろうかと考える。 息子が学校に上がってからこっち、ほとんど会っていなかった。 うっかり家に立ち寄ってしまったというただそれだけのことで、想像もしなかった酷な言葉の塊をぶつけられた事も、 尚人は未だ鮮明に覚えている。 尚人と能人は理由も分からない確執に縛られていた。 一度街中で遭遇してしまった時など、実の親子であるにも関わらず、 互いを目端に捉えながらも気付かぬ振りをし通したくらいである。 (原因はやはり自分の無関心だったのか。いやいや、無関心ではなかったつもり) 「おじさん何考えてるの」 ゴンコの真黒な瞳が、尚人のそれを射抜く。弁解の奥にある保身さえ見透かされそうだった。 「私にも息子がいてね。小さい頃からほとんど会っちゃいないけども」 「うわ、クソ親父だ。息子さん大事にしてあげてね」 独り言のように呟いてスタスタ歩く少女の小さな背中を、尚人は不思議な感傷を抱きながら追った。