2013/05/19


 冷やりとした空気から一歩逃れて、男は深々と座席に腰かけた。 あと数時間もすれば人で溢れかえるだろう西京駅も始発の時間には穏やかなものだ。 金曜の浮かれた街に騙されて、一晩中捕まっていたのだろうか、背広姿の男がぐっすりと眠りこけている。 布津尚人が早朝の電車に乗り込んだのは決して華やかなる街の誘惑に負けたからではない。 神居を望む大劇場、文化一つを思い出に、袖振り合うのも多生の縁と、場所を変えての座談会。 同業どうしコレカレ語るうち、気の付く頃には空も白々明け果てた。 (イヤしかし、久方振りに駆け出しの頃を思い出したなァ) 一晩中演劇論を闘わせ、寝や寝ずやあちこちの劇団に自分を売り込んでいた頃の事を思い起こし、 尚人は苦笑した。四畳半の狭い部屋に山積みの読本と僅かの台本、そこに身体を押し込めるようにして、 なんと三人が暮らしていたのだから驚きだ。 必ずしも活動時間が重なっている訳ではなかったが、思えば随分と無茶をしたものである。  空気の抜ける音と共に鉄の扉が閉まった。 あとは目を瞑っていても目的地にたどり着くのだから、電車というものは有難い。 文明の利器というのはまことに訳の分からぬものながら、 訳の分からぬものに引っ張られて生きると言うのは大変楽なものである。  若かりし日なれば一駅二駅は歩いて帰ったのだろうが、こと舞台上を後にした自分というものは、 実際自分が思っているよりも数倍、イヤ数百倍頼りない。 耄碌したとは言わないが、僅かなりとも老いた実感があればすぐさまそれは妄想という一箇のけだものとなって牙を剥く。 信じ込むこと。若くあるとは若さを妄信すると言うこと。 あるいは過去を忘れるのではなく懐かしむでもなく、平行して生きること。  尚人はしばし夢の世界へ落ち込もうと目を閉じた。  向かいで眠りこけているだらしのない男は、グウと鼻を鳴らした。 ---  人の声がガヤガヤと耳に入って、尚人はハッと目を覚ました。寝過ごした! こんなことならタクシーを使えばよかったな、と若干の後悔と共に座席を立つ。 どこまで乗り過ごしてしまったのか見当もつかないが、これほど人が溢れているのだから通勤時間か。 絶望的な数の駅を通り過ぎたのだろう、と予め心に言い聞かせておく。  電車は大きく一度揺れて人を吐き出した。流れに逆らわずに尚人もその一員となって排出される。 溶け込むのは造作もないことだ。 しかしこれほど背広姿の会社員が溢れているところを見るに、この駅は西京駅かそれに準じたターミナル駅ではないのだろうか。 ひょっとして一周してしまったのかしらん?  違和感を抱いたまま尚人は人の波に流されていく。 カンカン帽のつばを持ち上げて、見上げた空も屋根に細切れ。どこへ行っても窮屈だ。  さあて、ここはどこの駅かしらん、と案内表示に目を移した布津尚人は、寸の間真顔で思考を止めた。 すぐに脳細胞が焼き切れんほどの勢いで混乱が押し寄せる。 トメニア製のスーパーコンピューター然とした凄まじい思考処理。 (東京……?) 厭な夢でも見ているようだ。東京都民が西京に迷い込むという噂、都市伝説のようなものは聞いたことがあったから、 「ここが東京である」という事実は案外すんなり受け入れられた。 しかし、西京都では東京都民はお尋ね者だ。噂の上での朦朧とした存在、追われるもの、規律の外。 西京人たる自分の立場はちょうど、西京での東京人と同じくつまはじきなのでは? こちらで自分がどうなるか、あるいはどう行動すべきなのか。 何も分からない。唐突に、何の用意も無く指針を失ったのだ。 (どうする、どうしたら……!) 被り続けていた仮面が剥がれ落ちていくような焦燥。 西京都ではチョット名の知れた演者でも、生身の人間としての尚人は自分が思うよりはるかに脆かった。  発車のベルに混じって、それとは異なるベルが尚人の耳に届く。 怪訝に思って発信源を探れば、一台の公衆電話から発せられるものだと容易に当てられた。  導かれるようにふらふらと歩み寄り、一瞬のためらいを飲み込んで、尚人は恐る恐る受話器を取った。 なぜかは分からないが、それが自分宛ての電話だと感じたのである。 「もしもし」 『もしもし、布津です。どちら様』 不機嫌そうな声に、尚人は今度こそ驚愕し、よろけて鉄骨にもたれ掛った。 背中を預けた鉄臭い棒はただ何の感情もなく彼を受け止める。 目を閉じて、暗闇を見つめた。深呼吸をしてなんとか早鐘の様に鳴り響く心臓を抑え込む。 「能人……?」 『あんたか、何の用だよ』 あからさまに温度を下げた声。間違いなく尚人の息子、布津能人の声だ。 しかしそれがどうして東京から、それも公衆電話から? 『おい、どうした』 言葉を発しない実の父親に若干の不安を感じたのか、能人は電話越しに問う。 「大丈夫」 ため息混じりに相手を落ち着かせ、言葉を続ける。尚人はこの短いうちに心を決めていた。 「私の事は気にするな。これも罰かもしれないな。アハハ。 能子の墓を頼むよ。ひと月帰らなかったら私の事は忘れてしまいなさい。後のことは頼んだ」 できれば能子と同じ墓に入りたかったものだな、という弱音は、恐らく届かなかっただろう。時間切れだ。 「さて――」 緑色の受話器を置いて、尚人は緩慢な動作で振り返った。 当面の目標は、身の安全を確保しつつ生活手段も得ることだろう。西京へ帰る前に野垂れ死んでは意味がない。  東京の空はずいぶん窮屈だ。尚人は僅かばかりの荷物を持って、東京駅を後にした。