2013/05/19


ふわり。キイロが暗闇に降り立った。淡い光を放ちながら道なき道を進む。 シャンシャンという鈴の音がじくじくと黒ずみつつあった世界を浄化するかのように気高く響く。  左腕さんは目を見開いた。 「もう。うでさんったら。あなたは中目黒之嘘吐とは別の人生なンですよ」 錫杖を一振りすれば、燃えていた街も元通り。悲劇は闇に溶けて消えて行った。 黒幕が姿を現す。 「貴様」 男はキイロを睨みつけていた。それを受けてなお、キイロは動じない。 「君は本当に綾敷さん?」 思わず尋ねた布津に微笑みかけて、キイロは凛と声を響かせた。 「アヤシ神社次期当主、綾敷キイロに御座います」 粛然として一礼。 「祓われるべきものが祓う無礼をお許しください、中目黒博士。祖父雷獣たっての願いにてこの闇を清めさせていただきます」 錫杖を地に叩きつけると、清い波動が長く閉ざされた意識に穴を開けた。 黒い世界が音を立てて崩れ落ちていく。 座り込んだ布津はただただ口をポカンと開け、左腕さんは珍しく無表情で事の顛末を眺めていた。 「雷獣……」 男は空を仰いだ。 「我が祖父は異国の地に散りました。ここの入口の雷獣は、ここで貴方が生み出した幻影。 招き入れるは最上君代――の前世を持つ、布津能人のみでありました」 崩れ落ちる闇を背景に、キイロは茫然自失の布津に手を差し伸べて立ち上がらせた。 深い暗闇の奥から現れ出た星空は高く、遠い。新鮮な空気が閉ざされていた空間に流れ込んだ。 男は長く息を吐き出した。 「しかし、綾敷とやら、君は現れたね」 「……孫、だからでしょうか」 初めて困った顔を見せたキイロに、男は笑みを向ける。 「いいや」 男はスッと頭に手をかざし、眩しそうに目を細めた。 「アレは元よりそういう男なのだ」 月が眩しいな。そう呟いた男は先程までと別人のようである。 「私は長い事考えていたのだ。無限の時間、靄に包まれたような思考の中で。 意識を利用した時空間転移装置の理論は間違ってはいなかった。しかし意識に伴う感情の制御までは――」 「待って待って」 男の独白をキイロが慌てて止めた。 「中目黒博士、話を噛み砕いて欲しいんですけど……」 チラリとそちらに目をやって、男は続ける。 「意識に伴う感情の効果は想定の範囲を逸脱していた。転移装置を利用した際にかかった負荷は最上君代の恐怖 ――恐らくは、死に対する恐怖――から受けた影響によって何倍にも膨れ上がり、理論は崩壊した。 君代の恐怖はそうだ、狂気であったが、君代を『逃がし』て私はこの閉ざされた世界に居残った。 私が死屍累々の戦地に降り立った時、雷獣は既に死んでいた」 「何を言っているのこの人は……」 「分からない」 綾敷キイロは頭を抱えた。布津は首を傾げて応える。唯一左腕さんは耳打ちして解説を加えた。 「要は、彼の最初で最後の実験は失敗した、ということです」 それから、左腕さんはゆっくりと男――中目黒之嘘吐に歩み寄った。 「アナタのことが分かった」 「そうか」 中目黒は皮肉っぽく笑った。 「僕はここで生まれた。愚かな男の愚かな野望の為に生まれたが、生きることはとても楽しかったですよォ」 半ば諦めたようなその言い方が、布津の心に引っ掛かった。 「おい――」 「同じ男なのですよ。綾敷サンは別の人生と言った、しかし僕はこの男の人生の一部なのです。  同じ男が二人存在する、因果律を歪めるような馬鹿げた事態は起こしたくありませんねェ」 左腕さんが、いつものように微笑んだ。