2013/05/19


 足元さえ覚束ない暗闇の中を布津はそろそろと進む。背を向けて逃げ出さないのは勇気のためではない。  不意に目の前に現れた男にも驚かない。いい加減、神出鬼没野郎どもには辟易していた。 しかし、男の容姿を布津の意識が認識した時、激しい痛みが布津の脳髄を責め立てた。 うずくまる青年を見下ろし、男は微笑む。 「やっと会えた。『最上君代』」 落ち着いた声は左腕さんとは似て非なるものだ。  霞む目の端に男の姿を捉えた。半仮面に覆われているはずの右目には、赤黒く醜い引き攣りが残っていた。 人を食ったような笑みは掻き消え、同じ笑みであるにも関わらずどこまでも冷徹である。  男は一歩、また一歩とうずくまる布津に近付いた。  逃げたい。  初めて本物の恐怖が布津を支配した。男が近づくほどに頭に響く痛みが悪化してゆく。 「君代って誰だ、それは俺じゃない」 「冬が来てしまう。『最上君代』が居なくなってしまうのだ」 「知るか!」 布津は吠えた。どいつもこいつも手前勝手な事を言いやがって。 「俺は左腕さんとひろしさんを迎えに来たんだ、黙って出しやがれ!」 男の目がギラリと光る。ギリギリと締め付ける痛みに脂汗を流しながら、布津は人が狂気に堕ちる瞬間を見た。 「左腕さん!あれは失敗だったなァ!」 男は哄笑した。 「もっとも、キチンと君代を見つけ出したのだから出来損ないも役には立った。  全く六六六作戦は愚かだったよ効率が悪すぎるのだ所詮凡人の空論」 「六六六作戦……」 それは、ひろしさんが紙に残したものと同じ名称。 男は茫然とする布津の顔を見るともなく見て、この上もなく優しく笑んだ。 「そうか、あの頃君は雷獣と――六六六作戦はね、妖怪の生成に関わる研究だった。  彼らを成立させ得る『認識』を弄ることで無尽蔵に妖怪を生みだし、やがては兵団を組織しようという研究だった。  しかし出来上がるのはヒルコのようなグズグズの失敗作ばかりでねェ」 私の専門とは異なるが、戦後独自に六六六に似た研究に着手してね。何しろ時間は無限にあったのだから。 男の懐かしむような正気は、笑みと共に掻き消えた。 「ようやく完成に近づいたと言うのに、アレは逃亡した。本来外には出られないはずの空間から」 合点がいった。……ような気がした。「左腕さん」は幽霊ホテルから現れた。 西園寺によれば、幽霊ホテルは時空間を貫いて移動するという。恐らく、この訳の分からない建物の中にもやって来たのだ。 「幽霊ホテルまで出張って逃げたってことは、逃げるべきだったってことだ」 布津が絞り出すように発した声は、果たして男に届いているのだろうか。 「私は『君代』をこちらに引きずり込みたい」 「……?」 男は夢見るように語る。 「失われた正気など捨て置けば良い」 「何が言いたい!」 声を荒げた布津の方に目を向けることさえ無く、男はアハハと笑った。視線が虚空を射抜く。 「狂気へ堕ちろ最上君代!」 浮遊感。頭の痛みと引き換えに、内臓をどこかに置いてきたような奇妙な感覚が布津を襲った。 嘔吐しかけたが、こみ上げたのは苦い胃液ばかりである。てらてらと糸引く唾液を拭い顔を上げると、 見知らぬ男の隣に、見知った妖怪が立っていた。 「左腕……さん……?」 「布津君ですかァ?」 見目には狂気的でありながら、男とはどこかが異なる飄々とした態度。 「ウフフ、『左腕さん』。出来損ないのヒルコが君代の心を乱すなら」 男はもはや欠片の正気も持っていなかった。 左腕さんを押し倒し、男はその半仮面に手を掛けた。 悲鳴が暗闇に響き渡る。目の前のその光景に布津は目を見開いた。 「やめろ、やめろ、やめろ!」 「壊すのだ、もはやこの空間さえ必要ない」 グロテスクな音と共に、左腕さんの仮面は引きちぎられた。