2013/05/19


結局、失踪事件の処理は夜まで掛かった。布津を含め下っ端の職員はその関係の雑務を黙々とこなしていたが、 やはりこの手の緊急事態ともなると定時では上がれない。一応正義の特高警察という矜持があるので、 普段は休みたがりの布津であっても隣の分を手伝う気にもなる。  庁内を走り回ったせいであちこちが痛む身体を引きずって、布津は安アパートの一室に崩れ落ちるように帰宅した。  突然とんとんと肩を叩かれた。呻き声と共に顔を上げる。その感触に覚えがあった。 「ひろしさん」 初めて出会った時と同じように本体はどこかに置いてけぼりで、ひろしさんだけが所在なさげにふわふわと浮いていた。 「左腕のヤツは?」 ひろしさんは「それだよ!」とでも言いそうな勢いで指を立て、何かを伝えようと必死で手振りをするのだが、 いかんせん片腕のみで表現できることなどたかが知れている。  布津がガサガサと乱雑な部屋を掻き回すと、高等部時代に使っていたレポート用紙が現れたのでそれをひろしさんに突き出した。  だが、なぜかひろしさんはペンを受け取ろうとしない。 空中で静止したまま数十秒、ようやく動き出したかと思えば、動作は油の切れた機械のようにぎこちない。 「……どうしたんだ?」 答える術はペンを取り紙に記すことなのだが、ひろしさんはまるで別の存在に操られているかのように ジリジリとしか動けないらしかった。 (別の存在に?) 思い当たる節を浮かべて、布津は思考態勢に入る。  現実の左腕さんと噂上の左腕さんの違い。複数存在する彼の都市伝説。  矛盾を解決するべくキイロが提示したのは、二重人格説、別人説、噂改変説……エトセトラ。 そして、彼にそっくりな容貌を持つ男の存在。「多宇宙ニ於ル時空間併存ノ原理及其応用」を発表し 三十二の時突如失踪した男、中目黒之嘘吐。  何かが閃いた気がしたのに、それはあっという間に意識の下に引きずられて飲み込まれてしまった。 「冬が来てしまう」 らしからぬ焦燥を滲ませた左腕さんの声。 布津にとっての災厄として現前した男は冬を恐れていた。そう言えば、あれが「降ってきた」のは春のことだったな、と思い出す。 ひろしさんが布津の肩を叩いた。思考に夢中になっているうちにひろしさんはなんとかペンを取っていたらしい。 見れば元来綺麗とは言い難かった文字はさらに歪み、何かに必死に抵抗したかのようである。 ひろしさんは手を横に振っていた。真意を理解出来ず、そのミミズ文字を覗き込んだ。 「六六六作戦?」 加えて書かれていたのはどこかの住所だった。 「どういうことだ?ひろしさん」 だが目を上げたそこに既にひろしさんの姿はなく、布津は再びぽつんと取り残された。