2013/05/19


参 俺は目の前の腕を心底持て余していた。 「ひろしさん、でしたっけ。御主人…というか、本体というか、心当たりは」 肘から下だけの左腕が、乱雑に積み上げられた青年漫画雑誌をペラペラと捲っている。 目も無いのに果たして雑誌が読めるものだろうか。あるいは遊んでいるだけなのか。 俺の質問に対してしばらくは何の反応も見せなかったが、やがて小さく手首を振った。 ちびた鉛筆を手にして、癖のある鏡文字を漫画本に記す。 最新号、それもまだ読んでいないページにだ。 「しもん、けんさ……よく知ってるな。ただ、それは鑑識課の仕事だからなあ。あそこ怖いし、ただの迷子に鑑識の人たちは出張ってこないんじゃ」 ひろしさんは「迷子」の言葉に反応して俺の頭をペチペチと叩く。 やめてくれ、蛍光黄緑の染色で大ダメージを受けている毛根は、二十二にして既に前途多難なのだ。俺は必死で頭を庇う。 この浮遊する左腕を拾ってしまったのは単なる偶然であって、俺には何の責任もないはずだ。捨て置いても、やがて消えていくか、別の誰かに拾われるか。 にも関わらず、俺は「ひろしさん」を道端に転がしておく気にはなれなかった。 俺は戸惑っている。 厄介ごとには巻き込まれたくない。事無かれ主義が今までの自分の鉄板だった。 わりと世渡り上手で、常にではないが時々は道徳より保身を優先する。 ところが、他に対するそういった態度が嘘のように、ひろしさんに対しては一種の父性を感じている。 「ひろしさんには食費もかからないし場所も取らないし、しばらくここに居ればいいよ。何だったら本体探しも手伝おうか」 ひろしさんはパッと手のひらをこちらに向ける。彼の認識では手の平側が一応顔になっているのか。 ズイ、とこちらに手を出した。 頭上にクエスチョンマークを浮かべる俺をお構いなしに、手を取って上下にブンブンと振った。 なるほど、握手だな。 分かったときには既にひろしさんは手を放していて、天真爛漫さを存分に俺に知らしめてくれた。 『しばらくここに居ればいい、本体探しも手伝おう』 俺は思わず口をついて出た言葉を既に後悔しかかっていた。 *** それから二週間後のことである。俺は、とある人物を補導して話を聞いていた。 と言っても、自分は非番の日のことで、相手も悪人と決まっている訳ではないから、事実上は補導ではなく「道端で出会った人物と喫茶店で話している」というのが正しい。 男は、道端で寝転がってぼんやりしていた。 それがもう、おかしな男で、どちら様と聞いても「分からないんですよォ」、である。 風体も異様で、地べたに寝転がっていたのだから砂まみれなのは仕方ないとして、顔の右半分は仮面で覆われ、隻腕、やけにスラリとした足に赤いハイヒール。 ぺったりと七対三に撫でつけられた黒髪はやや乱れて、なにか少し運動したのかしらん、という様子だった。 (似ている……) 俺は前に聞いたとある噂話を思い出して、髪をかき混ぜた。 背筋に走った戦慄が正しければこうしてのん気に話して居る場合では無いのだが、その男の存在自体は別として、おかしな事をしようとする様子はない。 「腕は十中八九僕の部屋で居候をしています。で、記憶が無いと言うのは……」 立ち話をする訳にもいかない、妙な格好の男を自分の部屋に上げるのも憚られる。 そういう訳で近くの喫茶店にやって来たのだが、男はいたく気に入ったらしく、寛いだ様子で紅茶を啜っている(もちろん俺の奢りだ)。 「妙なホテルで目が覚める以前の記憶がすっぽり無いンですよォ。本当に、真っ暗闇で」 「しかし、その、荒縄が可愛らしく動くだの建物が崩壊するだの、いかな百鬼跋扈の西京都とはいえ俄かには信じがたいですよ」 「しかし嘘を吐く必要もありませんよ。僕は心底困っているのですから」 確かに、彼が嘘を吐いたところで得になる事など何もない。 強いて言うならこの平凡なる男をからかって遊んでいる……可能性がゼロであるとは言えないが、相手にとっても時間の無駄だろう。 「そうそう、覚えているような、そうでないような。君、黒い大きな建物をご存知ですか。全体が真っ黒の」 フッと思い浮かんだというように男が尋ねた。 俺はしばらく考えて、首を横に振る。大きな建物となればこの西京都にはいくつもあるが、全体が黒、というのは俺の知る限り無かったと思う。 「全体が、っていうのはどのくらい?玄関は別だとか、屋根は別の色とか」 「全てです。建物の影なのではないかと思う位、黒一色です」 やはり、心当たりは無かった。 相手の半仮面もこだわって尋ねた訳ではないらしく、あっさり引き下がる。 「今度はこちらが尋ねたいんですが」 「今度はと言いますが、さっきから君が僕に尋ねてばかりですよォ。僕が訊いたのは黒い建物のことだけで」 「エエイ、面倒な男だな。順番的な話をしたまでのことですよ」 男は微笑んで右手をヒラヒラと振った。 「ええ、どうぞ続けて」 ああ、この男がひろしさんの持ち主あるいは本体だな、とほとんど確信めいた考えが頭をよぎった。