2013/05/19


壱 春眠不覺曉 處處聞啼鳥 有名な詩が頭に浮かび、ぼんやりと部屋を眺め回した。 どうやら寝ていたらしいのだが、眠りに就いた記憶も、またそれ以前の記憶もぽっかりと大きな穴が開いていた。 かび臭いベッドには褪せた赤のシーツが掛けられている。 謎の安堵。 安ホテルの一室、と言えばその通りであるが、寂れた高級ホテルのなれの果てとも見て取れるその部屋はすんなりと彼を受け入れている。 決して「誰かの住まう一室」ではない明らかな一回性。 しかしその部屋には、あるいはその部屋の中に居る彼自身にはあるものが欠けていた。 「アレ、アレェ」 変だな、変だな、おかしいなァ、と独りで呟きながら男は何度か両腕を前に突き出したりまた引っ込めたりして何かを確認する。 傍から見ればその様子は笑いを誘うものであったが、男にとっては実際大変な問題で、すぐには受け入れがたい事件が起きていたのである。 しばらくして男は右腕一本で頭を抱えた。 「僕の左腕が無い。無いよォ……」 男の左肘から先は、最初からそこに無かったような白々しさで全く虚空であった。 認識と感覚は繋がり、不意に訪れた痛みはむしろ心の臓に突き刺さる。 血も流れない欠損部位からの痛みが脳髄を走り、その信じ難い強さの前にいかな優秀な処理能力を持つ部位であっても 少々の誤を生じるのは致し方ない事であろう。 しかし、当人にとっては堪ったものではない。 男は(実際に痛むのはその部位で無いと理解しているにも関わらず)胸を押さえ、ベッドを転がり落ちて床に這いつくばった。 短い息遣いが男の他に生物のいないシンとした部屋でしばらく続く。それから胸を掻き毟る衣擦れの音。 「痛い、痛い、痛い、痛い」 大の男が床の上を目に涙を浮かべながら転がる様は痛々しく、ある種扇情的ですらある。 目覚めた時にはきっちりと整えられていた黒髪はすっかり乱れ、ベストからはボタンが一つ無くなっていた。 痛みにさえ、生物は適応する。 しばらくして男の息遣いがようやく落ち着きを取り戻すと、彼はある事に思い至った。 (仮面、赤のハイヒール。どこかで……) 男の顔は右半分が何やら仮面で覆われており、足にはピタリと合うサイズの赤いハイヒールを履いていた。 それに何かしらの覚えがあったのである。 深海の底で酷くのんびりと舞う砂煙に隠される記憶。 「ふむぅ」 男があぐらをかき顎に右手を添えて考える間、備え付けの鏡には三と半分の人影が行き交い、荒縄が蛇のようにするすると擦り切れた絨毯の上を這い消えたのであるが、 そんなことは露知らず、男の脳裏にはある一つのイメージが浮かび上がりつつあった。 黒い建造物。 病院らしき形状をしていながら、その全てが(まさに全て、物体の境界すら)漆黒に沈んでいた。 しかし僅かに浮かんだその漠然とした映像さえ捉える前に再び沈み込んでしまい、後にはやはりのんびりとした砂煙が残されるのみである。 男はようやく立ち上がり一先ず状況を把握せねば、と言う事に気付いた。 この場所がどこであるのか、なぜ居るのか、そして自分が何者であるのかさえ分からないのである。 分かるのはただこの場に「存在する」という痛みが証明する事実と「分からない」ことであるというパラドクス。 部屋にあるものは壁に貼りついた鏡と洗面台、それに自身が眠っていたベッドのみであり、そのどれもが古臭く褪せた色味を帯びていた。 男は何度かベッドの前を行ったり来たりした後で鏡の前に歩みを進めた。 その鏡に映った自身の姿は記憶の中にある自身の姿とはかけ離れたものであり、尚且つそれは自分であった。 感覚で掴んでいた仮面は白であり、目を三日月型に笑わせている。 それが、自身が思考に沈んでいくとまるで顔の一部かのようにスッと細められるの鏡越しに見て男は悟る。 顔の一部かのように、ではなくこの半仮面は顔の一部なのだ。 そこでますます違和感は肥大した。 (ここは、何だ。不思議な所だ。それにこれは僕じゃないとは思うのだが、やはり自分であるから僕なのだろうなぁ) 男自身にとっても意外なことに、彼は大変のんびりとした心持ちで事態を眺めていた。 鈍く鼓動と共に響く痛みさえなければ延々ぼうっと思考の深みに嵌っていた事だろう。 「おや」 男は少し驚いて足元を見た。

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2013-05-19